誰があなたを殺したの

千秋楽まで耐えきって

君と踊るパラノイア

つづき…とは言えないかもしれない
でも続編、姉妹作

ふとさっき思い出したのだが
ひとりの人間をこの思考に巻き込んだことがあるな、と
絶対的な好意なんて無くて好意は更新されていくものだという考え
その人はちゃんと勝手に信頼できて油断できて甘えられる人だったのに
今考えると酷いことしたなと思っている
本人が納得してるようなのでまぁいいかとも思っているけど
この考えが間違ってるとはあまり思わないけども
ひどく寂しい考え方なのだろうなというのは分かる、さすがに。

誰からの好意も更新しなければと思っているのは
さすがに寂しい人だろう、変われないが
というか全部言葉にしすぎなんだよな
きっと誰だって好意を更新し続けて関係を築いているのだろうけど
それをわざわざ言葉でまとめないだけだと思う
そういう言葉でまとめなくていいものばかり言葉でまとめてしまう
自分の知ってる形にしないと気がすまない
特に人間関係は
だから会話がパターンになってしまう
知ってる形にしたいので
こう言えば喜ぶ、こう言ったら傷つく
そういうことを頭で考えて一番円滑に会話が進む選択肢を選んでいる
そこに私の感情はあまりない
嬉しくなくても喜ぶし、怒っていても笑う
それが円滑なコミュニケーションだから、最適解である。
ただ私のめんどくさいところは仲良くなってくるとこれを認めてほしいと思うところだ
私が常に最適解を選んでいることを評価してほしいと思ってしまう
なんてめんどくさいんだ。
ちなみに一度どうしても納得されず同じ話を何度も繰り返した
そのときに言われたのが
「嘘は嘘であることを隠したままでいてほしい」
その通りだ
反省した
嘘を吐くくせに嘘を評価してほしいなど
傲慢で愚かにもほどがある
私は円滑なコミュニケーションを求めながら
私をみてもらえることを望む矮小な生き物でした。

もう私の言動を評価してほしいなんて我が儘言わないから
どうか私とコミュニケーションをとってくれませんか?

お互いに被害妄想を持ち寄って、偏った思想で僕と踊りませんか